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映画「LIFE!」感想(ネタバレなし)

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●美しい世界を見よう!

映画「LIFE!」(原題:The Secret Life of Walter Mitty)の字幕版を劇場で観てきました!

素晴らしい!

というわけで、早速のレビューです。

注:基本的に以下の感想はネタバレなしの方向で書いています。ただ物語は何でもそうですが、一切予備知識を入れない方が当然楽しいので、その点はご了承ください。


主人公ウォルター(ベン・スティラー)は、41歳の平凡な男である。

雑誌「LIFE」のネガフィルム管理部門で真面目に働いている。

ウォルターは、同僚のシェリル(クリステン・ウィグ)に恋しているものの、直接話しかけることは出来ない。

彼女がマッチングサイト「イーハーモニー」に登録していることを知り、自分も登録してみるが、いまだ彼女にウィンクを送れずにいたのであった。

ある日、勇気を出して、ウィンクのボタンをクリックしてみるが、エラーのダイアログが出て、彼女にウィンクが送ることが出来ない。

ウォルターは、イーハーモニーに電話をかけるが、担当者からは、もっと自分自身のプロフィールを充実させるようにアドバイスされる。

しかし、ウォルターには特筆に値するような経験が何一つないのであった。

そんなウォルターには、現実の平凡さから逃げるような空想癖があった。

空想の中では、ウォルターはどんなことでも出来るヒーローになれるのだが、空想へのスイッチが入るのは突然で、その間は、周りの人間が話しかけても無反応になるほど。

一方、ウォルターの働く会社には事業再編のためにテッド(アダム・スコット)がやって来て、「LIFE」のオンラインへの移行と、雑誌としての廃刊が告げられる。

有名なカメラマンであり、冒険家のショーン(ショーン・ペン)は、ウォルターに「LIFE」の最終号のための写真のネガを送って来ていたが、指示されていた25番のネガが、どこを探しても見つからないのであった。

ウォルターには、リストラの危機と、「LIFE」最終号の表紙を落とす危機が同時に迫っていた…。


「LIFE!」は物語の類型的には「ボーイ・ミーツ・ガール」に分類される。少年が少女に出会い、恋に落ちることで話が進むのだ。(もちろんウォルターもシェリルも、ボーイでもガールでもないが…)

今まで、空想の中でしか冒険をしたことのなかった男が、仕事のためとはいえ、現実の冒険に出るのは、この恋に背中を押されてのことだ。

「LIFE!」のスローガン「世界を見よう。危険でも立ち向かおう。それが人生の目的だから」を誇りに思うウォルターが、そのスローガン通りに旅に出る時に、何が起こるのか。

そして、25番のネガには何が写っているのか。


映画としてのテクニカルな文脈から「LIFE!」を観ると、やはり印象的なのは、「パニック・ルーム」を彷彿させる冒頭の実写とタイポグラフィーの組み合わせ、それに続き、ひと目でカイル・クーパーのものと分かるオープニング・タイトル。

カイル・クーパーのオープニング・タイトルが映像世界を席巻したきっかけが「セブン」である。

そして「ソーシャル・ネットワーク」のサントラを聴き込んだ僕が、何か印象が似てるなと感じた音楽。

(後で調べたら、実際には作曲者などに共通点はなかったのだけれども)

極め付きが、ウォルターの空想による「ベンジャミン・バトン」のパロディ・シーン。

そもそも、ネガとポジの関係ではあるものの、「LIFE!」の本質的なテーマ(豊かな物質社会に生きてはいるが、生きている感覚のロスト)というのは「ファイト・クラブ」のそれである。

そう、そのどれもが、デヴィッド・フィンチャー監督作品へのオマージュになっているのだ。

映画の中で、他作品へのオマージュは良く観られるものだし、また師匠と弟子で、映像が似たようなテイストになることも良くあることだ。

しかし、1つの作品が1人の監督に対してここまで徹底的に寄せてくるというのは珍しいのではないか。

ベン・スティラー監督の、デヴィッド・フィンチャー監督への並々ならぬリスペクトを感じる次第である。


そういったレイヤー構造を持っていて、それを読み解くことが出来ると、また本作への面白さが倍増するのだが、

「LIFE!」は、そういったことが分からなくても十分に素晴らしい映画になっている。


ストーリーは素晴らしいし、25番のネガという謎のひっぱりとその答も素晴らしい。

ベン・スティラーがコメディ畑出身ということもあり、随所に適度な笑いを入れてくるのも楽しい。

また、ベン・スティラー本人含め、キャスティングも素晴らしい。

映像は、空想から現実まで、またオープニング・タイトルからエンド・クレジットまで、そのどれもが見事だ。

そして、それらを盛り上げる音楽も非常にエモーショナルで心打たれるものがある。

さらには、そこに前述のテクニカルなレイヤー構造までもが加わり、非の打ち所がない仕上がりになっている。

観終わったあとに、非常に気分が上がるので、最近お疲れ気味のアナタや、最初のデートなんかにもオススメです。


「LIFE!」感想





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    「ゼロ・グラビティ」感想(ネタバレなし)

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    ●映画が到達した最高峰の作品

    年末年始にかけてバタバタして、劇場で観ることを諦めかけていた「ゼロ・グラビティ(3D)」を観ることが出来た。

    素晴らしい体験だった。後半は涙が止まらなかった。

    注:基本的に以下の感想はネタバレなしの方向で書いています。ただ物語は何でもそうですが、一切予備知識を入れない方が当然楽しいので、その点はご了承ください。

    「ゼロ・グラビティ」の感想を簡潔にまとめてしまうと、宇宙空間で事故にあった宇宙飛行士が、どう行動したかという話である。

    上映時間は91分と、映画の平均からは短く、ストーリーらしいストーリーもない。

    それなのに僕は涙を流して感動した。これは映画が到達した最高峰の作品であるだろうと思う。


    いつもの記事と違い、先に感想をまとめてしまったのには理由がある。

    ここからは、特撮を必要とする映画についての考察を交えて「ゼロ・グラビティ」の感想を始めたいからだ。

    そういった技術的なことに興味のない方で、まだ「ゼロ・グラビティ」を観ていない方は、すぐにでも劇場に足を運んで欲しい。

    なぜなら「ゼロ・グラビティ」は3Dで観ることに特に意味があると思うからだ。

    さて、昔、特撮を必要とする映画というものは、観客に想像力が求められるものであった。

    もしあなたが1990年代以降の映画しか観たことがないのであれば、何を言っているのか分からないと思う。

    しかし、昔の特撮というものは、映画監督のイマジネーションを技術的に下回っていたのだ。

    例えばそれは、中に人間が入っている着ぐるみであることが十分に想像出来た。

    それは、その挙動から、何らかの糸で釣っているだろうことが想像出来た。

    物理的に制御出来ない水滴や火花などの粒の大きさから逆算して、映像に写っているそれは、本当は巨大な物体ではなくミニチュアであることが想像出来た。

    俳優の滑らかな動きに対して、コマ落ちしているような動きをしているそれは、ストップモーションの合成であることが想像出来た。

    およそ本物には見えないそれらを脳内で補完して、僕らは映画というものを観ていたのだ。

    転機が訪れたのは1993年だ。

    「ジュラシック・パーク」の冒頭で、CGのブラキオサウルスが立ち上がった時、僕はものすごい衝撃を受けた。

    僕は無類の恐竜好きであるので、動いている恐竜を見ることが出来たという衝撃もあったのだが、同時に映画に対してある確信を持った。

    それは、「今後、映画において、出来の悪い特撮を脳内で補完する必要はなくなるだろう」ということだ。

    そして、それは完全に現実のものとなった。

    現在、ハリウッド映画を観るにあたって、出来の悪い特撮によって現実に引き戻されることは、まずない。


    「ゼロ・グラビティ」においても、そういった技術的な進歩の恩恵を受けて、僕らはまさに主人公ライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)の体験を共有することが出来るのだ。

    加えて「ジュラシック・パーク」の時には予想もしなかった3D映画の普及である。

    僕らは冒頭から、地球を見下ろす宇宙飛行士になれるのだ。

    かつて「ファイト・クラブ」で、ビルの壁を無視してカメラが縦横無尽に動いて度肝を抜かれたことがあった。

    どうやってこんな映像が撮れるのか?

    これも答えは徹底的にリアルに作りこんだCG空間の中をCGのカメラが動いているわけであるが、「ゼロ・グラビティ」においても、もはやカメラワークに制限はない。

    全体を見渡す引きの映像から始まって、カメラは船外活動中のライアン・ストーン博士に寄って行き、宇宙服のキャノピーを無視して顔にズームし、そこからシームレスにライアン・ストーン博士の視点に移動する。

    そして、観客はライアン・ストーン博士が見ているのと同じように、自分の目の前で、吐息に曇る宇宙服のキャノピー越しに宇宙空間を見るという仕掛けだ。

    宇宙空間というものは、こんなにも美しく、そして恐ろしいのだという純粋な驚きがそこにあった。

    考えてみれば、「ジュラシック・パーク」以降においても宇宙を題材にした映画は数多く作られている。

    3D映画も「アバター」「スター・トレック イントゥ・ダークネス」とSF作品との相性も良い。

    しかしである。今まで特撮を必要とした映画は、主に未来や異世界といったものの描写に力を入れてきた。

    まず、宇宙にいるということは前提で、そこに何を加えていくかという作業であったように思う。

    僕が「ゼロ・グラビティ」に驚いたのは、そういった新しいイマジネーションやビジュアルを一切使わない、いわば今までありきただりと思っていたことの中に、こんな鉱脈があったのかということである。

    現在の実際の技術の範囲内で宇宙で活動することを、徹底的にリアルに描写することが、こんなにもすごいことなのかという純粋な驚き。そして恐怖。

    確かに現在、昔より宇宙というものは近くなったように感じる。国際宇宙ステーションでは日本人のスタッフも活躍しているし、無重力状態での実験映像も目にすることが出来る。

    しかし、やはり多くの人間にとって、宇宙飛行士の体験というものは、実際には出来ないものなのだ。

    「ゼロ・グラビティ」は、危機的状況の宇宙飛行士というものを、まさに体験出来るものになっている。

    一方で、昔から映画にリアリティを求める手法としては、ストーリーをノンフィクションにするというものがある。

    例えば「アポロ13」がそうだ。実際に起きた事柄をベースにして、危機的状況の宇宙飛行士を描き、地上で彼らを地球に無事に戻すべく奮闘するスタッフを描き、家族を描き、そういった丹念な積み重ねがリアリティと感動を作っている。

    ところが「ゼロ・グラビティ」はフィクションであり、そういった重厚な描写はない。物語は宇宙空間だけで進行し、無駄な描写は何ひとつない。登場人物のバックボーンさえ、深くは分からない。

    それなのに、ノンフィクションを超えるようなリアリティと感動が、そこにある。

    こんな作品を出されてしまったら、他の映画監督は頭を抱えてしまうのではないか。

    終盤、おやっと思うようなフックになるシーンがある。

    そして、そのシーンの謎が解け、スイッチが変わってから、ラストまでの畳み掛けるような展開がまた素晴らしく、そこから僕は泣いてしまった。

    3Dメガネ外したくないし、まったく困ってしまうのだけれども(笑)

    最初に述べたように、「ゼロ・グラビティ」は映画が到達した最高峰の作品であるだろうと思う。

    映画好きで良かったと、しみじみ思える素晴らしい作品であった。

    ゼロ・グラビティ



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    真夏の方程式 其の弐

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    真夏の方程式にオダさんが 其の弐 1
    真夏の方程式にオダさんが 其の弐 2
    ※真夏の方程式役、気付いたかな?


    ● 関連記事:「真夏の方程式」感想
    ● 関連記事:容疑者Xの献身:読了
    ● 関連記事:「容疑者Xの献身」感想
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    「真夏の方程式」感想

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    ●前作「容疑者Xの献身」路線を踏襲している

    映画「真夏の方程式」観てきました。

    かなり遅れてのレビューです…。

    注:基本的に以下の感想はネタバレなしの方向で書いています。ただ物語は何でもそうですが、一切予備知識を入れない方が当然楽しいので、その点はご了承ください。


    「真夏の方程式」とは「容疑者Xの献身」に続く「ガリレオ」劇場版の第2弾。

    「真夏の方程式」公開に先駆けて、東野圭吾原作の「ガリレオ」シリーズの第2シーズンもテレビで放映された。

    キャストが一部変更になったせいか、若干テイストが軽くなった印象の「ガリレオ」第2シーズンだったが、「真夏の方程式」は前作「容疑者Xの献身」と同じく、西谷弘監督の手によるもので、テレビシリーズとは異なり堅実な作りという印象を受けた。

    「真夏の方程式」に先駆けてスペシャル枠で放送された「ガリレオXX 内海薫 最後の事件」も同様に西谷弘監督の手によるもので、「容疑者Xの献身」や「ガリレオXX 内海薫 最後の事件」をご覧になった方には、何となく本編とのテイストの違いをイメージしてもらえるのではないだろうか。

    東野圭吾原作の「ガリレオ」シリーズは、現在、「探偵ガリレオ(1)」「予知夢(2)」「容疑者Xの献身(3)」「ガリレオの苦悩(4)」「聖女の救済(5)」「真夏の方程式(6)」「虚像の道化師 ガリレオ7(7)」「禁断の魔術 ガリレオ8(8)」が出ている。

    そのうち、「容疑者Xの献身(3)」「聖女の救済(5)」「真夏の方程式(6)」が長編で、その他は短編集である。

    僕は現在の時点で、「聖女の救済(5)」までの原作を読んでいる。

    また「真夏の方程式」までにテレビで放映されたものは「ガリレオXX 内海薫 最後の事件」まで全てを観てから劇場に向かった。

    つまり、「真夏の方程式」の原作は未読で劇場に行ったわけである。


    物語は、主人公の帝都大学物理学准教授、湯川学(福山雅治)が、玻璃ヶ浦という美しい海の町に行くところから始まる。

    「真夏の方程式」はタイトル通り、夏のイメージで作られていて、この辺りは冬のイメージである「容疑者Xの献身」と好対照を成している。

    おそらく「真夏の方程式」を劇場に観に行く方は、多少なりとも「ガリレオ」シリーズに触れたことがあると思うのだけれども、仮にそうでなくても独立した物語として楽しめるようになっている。

    事前に押さえておくべき伏線としては、湯川先生が子供嫌いで、子供と話すとじんましんが出るということくらいか。

    柄崎恭平という少年と話したあとに、湯川先生が不思議そうに自分の腕を見るのは、本来なら出るはずのじんましんが出ていないということ。


    さて、ガリレオシリーズの短編は基本的には、そのトリックの技術的な面がハイライトになる。

    世の中、日々技術が進歩しているのだから、殺人事件のトリックも進歩しているのではないかということではないだろうか。

    実際、湯川先生は「現象には必ず理由がある」と、トリックにのみ興味があり、犯人にも犯人の動機にも興味はない。

    しかし、現在までのガリレオシリーズの長編3本は、トリックに目新しいものがないという特徴を持つ。

    特に、劇場版の「容疑者Xの献身」「真夏の方程式」は、トリックは凡庸だが、その動機が複雑であるのだ。

    そのため、謎を解明するには、「トリック」よりも「動機」を理解する必要性が出てくる。

    必然的に、理(トリック)vs 情(動機)という構図になるわけで、湯川先生にとっては、このような事件の方が難易度が高いのだ。


    個人的には、「容疑者Xの献身」に比べ、これで良かったのかと思う部分も多い。

    その辺は、登場人物がかなり多いので、描写不足になってる部分があるのかもしれない。


    しかし、嘘が嘘と分かりながら、それでも全体像がなかなか見えてこない構成は面白い。

    また、湯川先生が苦手なはずの子供との交流が、とても爽やかな印象を残している。


    物語の構造は前述の通り、「容疑者Xの献身」を踏襲した路線なので、前作を楽しんだ方なら問題なく楽しめると思う。


    真夏の方程式にオダさんが 1
    真夏の方程式にオダさんが 2
    ※確か織田裕二出演って話だったけど…


    ● 関連記事:真夏の方程式 其の弐
    ● 関連記事:容疑者Xの献身:読了
    ● 関連記事:「容疑者Xの献身」感想
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    「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」感想(1)(ネタバレあり)

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    ●ついに辿り着いた希望への序曲

    (承前)

    さて、そんなわけで、新劇場版3作目にして、ついに劇場へ行くことに。

    しかし、事前にチラホラと流れてくる「訳が分からない」という噂…。

    うん?ここにきて訳が分からないとな?

    と、一抹の不安とともに劇場へ。

    予告編のあと、スタジオジブリ作品のトトロの画像のあと、樋口真嗣監督の「巨神兵東京に現わる」からスタート。

    この短編の製作開始のニュースはネットで見たけど、詳細を知らなかったので「?」な僕。

    巨神兵なのに、なぜナウシカの声じゃなくて綾波の声なの?

    しかし、「Q」を観終わった今となっては、そんなこと出来るのか分からないが、これは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のDVDに同時収録した方が良いと思う…。

    なぜなら、「巨神兵東京に現わる」は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」と同時に観ることに意味がある映像だと思われるからだ。


    そして、いよいよ「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」スタート。

    既に観ていた冒頭6分38秒から。

    あれ、TV版と違ってマリが歌ってるね?

    と、その冒頭6分38秒のあとが予想外の展開。

    ここからが頭の中が謎解きフル回転モード(楽しい)だ。


    僕はここで前述の「訳が分からない」という噂に引っ張られていて、

    ・真のエンディングにたどり着かないように、さらに謎を足してきている?

    ・ここは「破」とは違ったパラレルワールドなのか?(前回のレビューで書いたが、渚カヲルがパラレルワールドを認識しているとなると、劇中でまた別のパラレルワールドに移動する可能性が出てくる)

    などの予想を立てつつストーリーを追っていた。


    しかし、その予想も「14年後」の台詞で帳消しになる。

    ん?14年後?…ということは極めてまっとうに話が進んでいるんじゃないか!

    そして、その14年の空白は、我々観客のみならず、シンジ君にとっても同様なわけで、これはうまい演出だといえる。

    我々はここでもシンジくんとシンクロしていることになるわけで、我々の疑問はそのままシンジくんの疑問といえるからだ。


    しかしここで、エヴァで初めて主人公・碇シンジがストーリーの中心から外される。

    なんたって「破」のラストで「行きなさいシンジ君!」と、彼の行動を肯定し、今まで常にシンジ君の良き理解者であった葛城ミサトから拒絶されるのだからショックは大きい。

    しかも、旧作と違って新劇場版のシンジ君は頑張っているように感じられ、なおかつ観客は彼に感情移入できる構成になっていたのだから尚更だろう。

    おそらく世間にある「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」への否定は、「序」「破」で積み上げてきたシンジ君の努力が水泡に帰す(いや、実際はもっと悪い)ところにあるのではないだろうか。


    ただ、忘れてもらってはならないのは、「Q」はあくまで4部作の3作目だということ。

    それに、今作は「Q」と冠されてはいるものの(QがQustionのQと仮定してだが)そこに示される情報は、新たな謎よりも、今までのエヴァの謎に対する答えの方が圧倒的に多い。

    確かに変化球ではあるが、しかし最終的にはストライクコースに来ているのが、本作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だ。

    そもそもボールを投げて来なかったり、明後日の方向にボールを投げたというのであれば、「壊れた」「訳が分からない」の批判もあり得ると思うが、「Q」はそれには当たらない。

    ただ、打者としての力量が問われる作品であるということは言えると思う。


    実際に、僕は「Q」を観ることによって、エヴァに対する疑問のかなりの部分が解消した。

    そして同時に、旧作に対する感想がまるっきり変わってしまったのが事実だ。

    「そういうことだったのか。今までその可能性については1回も考えたことなかった!」と。

    そのために、TV版-旧劇場版までさかのぼって感想を書いた次第である。

    旧作において、僕は、「おそらく大風呂敷を広げたものの、難解な設定や伏線に対する答えは最初からなかったのであろう、と」結論づけた。

    しかし、それが間違いであったことを思い知らされたのだ。


    「Q」は4部作の3作目ということもあってか、かなり厳しいストーリー展開になっていて、そのまま終わっている。

    しかし「序」「破」「Q」では旧作とは決定的に異なっている点が一つある。

    その一つの違いこそが、新劇場版に残されている「希望」なのだ!

    逃げちゃダメだ
    ※お約束

    …ちなみに、今回の「Q」によって、なぜ新劇場版は4部作なのに「序破急」という3幕構成のタイトル+1(シン・エヴァンゲリオン劇場版:||)という謎も明らかになった。

    それに関しては、回を改めて「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」感想(2)に続く…(ラストシーンに対する考察なので、しばらくあとで…)




    ● 関連記事:「エヴァンゲリオンTV版-旧劇場版」感想(ネタバレあり)
    ● 関連記事:「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序:破」感想(ネタバレあり)
    ● 関連記事:「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」感想(1)(ネタバレあり)
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    「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序:破」感想(ネタバレあり)

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    ●リビルド(再構築)に伴う「序破急+1」の謎

    (承前)

    そんなわけで、自分の中でエヴァの結論が出たために、再びエヴァが映画化されるというニュースにもさほど興味がなかった。

    まぁレンタルが旧作落ちしたら観るかな、くらい。

    ただ一つ、不思議なことがあった。

    それがヱヴァンゲリヲン新劇場版の副題「序破急」だ。

    僕自身は「マンガのしくみ―プロのマンガ家を目指す人のグラフィックバイブル」という本でこの言葉を知っていたのだが、序破急とは能などに用いられる三幕構成の意味である。




    しかしヱヴァンゲリヲン新劇場版は4部作であるという。

    物語が4段構成ならば通常は「起承転結」を用いるはずで、そこをわざわざ「序、破、急、タイトル未定」という構成にしている。

    4部作の最初の3作品に「序破急」という副題を付けるのは非常に収まりが悪く感じるので、これが疑問の一つであった。

    単に「序破急」言いたかっただけなのかな…とか(笑)


    などと思っていたら「序」を観ないうちに「破」が公開されるというニュースが(笑)

    今度は、「惣流・アスカ・ラングレー」が「式波・アスカ・ラングレー」に変更され、新キャラクター「真希波・マリ・イラストリアス」が登場とのこと。

    まぁレンタルが旧作落ちしたら観るかな、くらい(デジャブ)


    …なんて言ってる間に「急」改め「Q」が公開されるという。

    まぁレンタルが…と言いたいところですが、震災が終わって、ちょうど現在、僕の中で「思い残した作品を観ておこう」というキャンペーン中でして、今まで、いつか観よう・読もうと思っていた作品を実際に観たり読んだりしているところに、TVで放映されたのをきっかけにまとめて観ることに。

    そんなわけで「序」「破」「Q(冒頭6分38秒)」→「Q(劇場)」へ。


    【ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序】



    まず、新劇場版に対する自分の予想としては、夢オチとオタク批判で終わった旧作から考えれば「今度は真面目に作るしかないだろう」ということ。

    そう考えると旧作と同じオチは封印することになると考えられる。

    その第1作目である「序」は、旧作を踏襲しつつ、良く考えられて取捨選択・再構成されている。

    実際のところ「序」はTV版のストーリーをもとに再構成されていて(作画は完全新作)そこまでの驚きはない。

    しかし特筆すべきは、主人公、碇シンジの性格が以前と違った印象になったことだ。

    旧作のシンジくんは、性格にムラがあり、行動に一貫性がなかったせいか、あまり感情移入出来なかった。

    それは、少年の思春期特有の表現かと思っていたが、新劇場版を観ると、そうでもなかったのが分かる。

    同じシチュエーションでも、描写の仕方が変わったり、丁寧になることによって、こうも碇シンジの印象が変わるのかという驚きがあった。

    新作のシンジくんの方が、性格が前向きに感じられ、旧作よりもすんなりと感情移入できる作りになっていると思う。


    【ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破】



    ほぼこれまでのエヴァを踏襲した「序」に対して、新しい展開が増えていく2作目。

    「序」も同様だが、当然、劇場版はTV版より尺が短いために、不要な要素は取り払って再構成されている。

    なるほど「惣流」が「式波」になっていて、アスカの方は深く掘り下げないわけね、とか。

    今回も「序」に引き続き、観客はシンジくんに感情移入できる作りで、シンクロ率も上がりっぱなしといった感じか。

    そのため、ラストまでエヴァファンが夢に見たような理想的な展開が続く。

    気になるのは、「序」のラストに早くも登場した渚カヲル。

    カヲルくんの意味深な発言から、新劇場版は旧作のパラレルワールドなのかという疑問が生じる。

    アスカの設定変更や新キャラなど「破」はTV版から離れ始め、新劇場版は実質的に旧作のパラレルワールドといえるのだが、それを渚カヲルが劇中で認識しているとなると話は変わってくる。

    なぜなら、渚カヲルが我々観客と同様に旧作の世界も知っているということになると、エヴァの世界観の中にパラレルワールドが存在するということになるからだ。

    しかし、カヲルくんの意味深な発言に不安を覚えつつも、「破」は、これこそみんなが待ち望んでいたエヴァの理想像なのではないかと思えるものであった。


    【Q(冒頭6分38秒)】

    そして、劇場公開に先駆けて公開された「Q(冒頭6分38秒)」の映像。

    まず、エヴァによる空間戦闘という斬新な映像、そして「破」で、どうなったのか不明だったアスカの元気な姿。

    一見、「破」を引き継いで、順調に発展している、この「冒頭6分38秒」が「Q」の導入として恐ろしく良く出来ていることを、後に劇場で知ることになるのだ…。

    破を観る
    「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」感想 に続く)


    ● 関連記事:「エヴァンゲリオンTV版-旧劇場版」感想(ネタバレあり)
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    「エヴァンゲリオンTV版-旧劇場版」感想(ネタバレあり)

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    ●分岐したエンディング。しかし…。

    「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q EVANGELION:3.0 YOU CAN (NOT) REDO.」を観てきました。

    ではレビューを、と言いたいところですが、さすがに今までの流れを説明しないことには…。

    …ということで、「エヴァンゲリオンTV版」と「旧劇場版」から振り返ってみる。

    注:今回の感想はネタバレを含み、なおかつ個人的な感想ですので、よろしくお願いします。

    まず、「新世紀エヴァンゲリオン」は1995年から放映されたTVアニメ。

    NEON GENESIS EVANGELION vol.01 [DVD]

    「人類補完計画」や「使徒」など、謎に満ちた設定とクオリティの高い映像で、社会現象になるほどのヒットになったので、詳しい説明は不要でしょう。

    ところが、TV版最終2話(第弐拾伍話「終わる世界」最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」)で、エヴァはとんでもない終わり方をしてしまうわけ。

    人によっていろいろ解釈はあるだろうが、僕はこれを夢オチ(正確には妄想オチ)と判断せざるを得ない。

    つまり、碇シンジと、パンをくわえて走ってくる転校生の綾波レイがぶつかる場面を含めたあの部分のみが現実で、それ以外は碇シンジの妄想。
    平凡な中学生、碇シンジは、自分や自分の周りにいる人間を使って、エヴァという物語を妄想していたということ。

    これは夢オチであるがゆえに非常に強力で、例えば数あるエヴァの設定の中でも意味の分からない「エヴァに乗れるのは14歳の少年少女である」といったことにすら、シンジが妄想の中で自分を主人公とするべく、無理やり作った設定であるというように説明がついてしまう。


    さて、特筆すべきは、この夢オチがハッピーエンドであるという点だ。

    シンジは最後に(経過は分からないが)それまでのコミュニケーション不全だった自分の殻を破り、これからは他人と接していこうと決意する。

    そして、登場キャラクターたちから、そんな決断に対して「おめでとう」という承認を受けるのだ。

    思春期の自意識過剰な状態から一歩踏み出し、他者との関係を学び始める、幸福な成長に向けての萌芽がそこにある。

    エヴァは「ヤマアラシのジレンマ」など、作品中でも他者との関わり合い方に関する描写が多く、そういう意味ではこのエンディングも、ある意味エヴァらしいと言える。


    しかし、シンジにとってはハッピーエンドであっても、観客にとっては納得のいかない夢オチであることは確かだ。

    「新世紀エヴァンゲリオン」は放映終了後も、ビデオ化などによって人気は衰えるどころか加熱する一方で、それを受けて劇場版の制作が決定する。

    そして、前述のTV版最終2話をなかったことにして、劇場版として、第25話「Air」第26話「まごころを、君に」が作成された。

    劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]

    ストーリーとしてはTV版の第弐拾四話から分岐して話が続いているので、今回は第壱話〜第弐拾四話は碇シンジの妄想ではなく、みんなが観たかった話の続きと真のエンディングが提供されるはずだった。

    しかし、途中から雲行きが怪しくなる。

    スクリーンには唐突に映画館の観客席の実写映像が流れる。

    この映像の意味するところは「鏡」だろうと思う。

    実際にスクリーンを鏡にする機能があればそれを使用しただろうが、映画館のスクリーンにそんな機能はないために、事前に実写映像を撮影したのだろう。

    これはオマエらに向けたメッセージだとでも言わんばかりのカットだ。

    そして到達したエンディングは、地球上にただ二人残されたシンジとアスカ。

    最後にアスカの口から放たれる「キモチワルイ」というメッセージ。

    それは、たとえこの地球に二人きりになっても、新しいアダムとイブになることなどかなわず、(オマエらは)拒絶されるんだというオタク(コミュニケーション不全者)批判であった。

    この頃の庵野監督のインタビューにはオタク批判が多かったように記憶していて、このエンディングにも、あぁそういうことね、と思った。

    残念ながらエヴァンゲリオンのストーリーは完結せず、途中から「オタクが好きそうなコンテンツによるオタク批判」という意地の悪い結末に堕したのであった。

    この分岐した2つのエンディングにより、僕の中でエヴァに結論が出た。

    おそらく大風呂敷を広げたものの、難解な設定や伏線に対する答えは最初からなかったのであろう、と。

    その後、エヴァは漫画、ゲーム、など派生のコンテンツを生み出すことになるが、僕はそれらを追いかけることは一切なかった。

    あ、ただ勘違いされると困るので断っておくと、これによってエヴァが嫌いになったというわけではない。

    録画していたビデオテープや映画のパンフなどを、顔を真っ赤にしてぶっ壊したりとか、そういうのではない(笑)

    オチはともかくとして、タイポグラフィやデザイン周りまで含めたエヴァの完成度は非常に高く、ポップカルチャーの文脈で語ることも出来る作品だったのだ。


    ※ところが、新劇場版を観て、上記の感想が間違いであったことを思い知らされることになる…「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序:破」感想 に続く…)


    序を観る


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    「009 RE:CYBORG」感想(ネタバレあり)

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    ●現代の神話における敵は何処に存在しているのか。

    「009 RE:CYBORG(ゼロゼロナイン リ・サイボーグ)」観てきました。


    早速のレビューです。

    注:以下の感想では、ストーリー的なネタバレはないものの、劇中で重要な「彼の声」やラストシーンに対する考察が含まれています。

    「009 RE:CYBORG」は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」シリーズの神山健治監督による3DCG映画。

    僕がいつも行っているシネコンでは上映されておらず、どこで観られるのかネットで検索することからスタート。
    すると目に入ってくる「わけが分からない」というレビューの多いこと。

    どんなもんなんだろうな、と観に行く。

    まぁ結論から言うと、神山監督の最新作なら、この程度の難易度は想定の範囲内。
    おそらく「攻殻 S.A.C.」の神山健治監督による最新作、という認識がある観客には何の問題もないと思う。

    問題は「攻殻 S.A.C.」を知らない「サイボーグ009」のファンだろうか。
    もっとも、この作品は「サイボーグ009」の最新作という側面を持つのだから、その層を満足させる必要はあると思う。

    さて、どちらかというと難解な部類に入ってしまうであろう「009 RE:CYBORG」だが、まず「難解な映画」というものを2つに分類してみたい。

    (1)難解ではあるが、監督(脚本家)の中に明確な答えがある。

    (2)難解なフリをしているだけで、そもそも監督(脚本家)の中に明確な答えが存在しない。

    こう分類すると、(2)は典型的はダメな作品だ。これが許されるのは、事実に忠実に作ってあるノンフィクション作品やドキュメントなどであろう。
    しかし、残念ながらフィクションで(2)に該当するダメな作品はけっこう存在する。

    ここで「009 RE:CYBORG」を考えると、この作品は(1)だ。おそらく監督と脚本を兼ねる神山健治の中に明確に答えが存在すると思う。

    そう考えると、劇中にもう少し分かりやすいヒントがあってもいいのではないかと思う。
    なぜなら、ヒントを読み解くことが出来ない観客が「009 RE:CYBORG」を(2)に該当するダメな作品だと判断してしまうのが惜しいからだ。

    そこで、作品中のヒントから「009 RE:CYBORG」を考察してみたい。

    物語は2013年、世界各国で同時多発爆破テロ事件が発生しているところから始まる。
    東京では、なぜか島村ジョー(009)が爆破テロ事件を引き起こそうとしていた。

    この映画は3DCGのトゥーンレンダリングで作られているため、僕は技術的な部分にも大変興味があった。
    だから、冒頭の島村ジョー(009)の瞳には、同級生の女の子にあるハイライトが存在しないのにすぐに気付いた。

    このように「009 RE:CYBORG」で与えられるヒントは注意深く集中していないと分かりにくいものが多い。
    また、台詞のみで説明されている部分も多く、基本的にストーリーの難易度は高め。

    その後、物語は進んでいくのだが、そもそもゼロゼロナンバーサイボーグは現在どういう立ち位置なのか、そして過去には何があったのか。
    そういったことも劇中のヒントから逆算して推理していかなければならないのだ。

    しかし、そういったことが分からなかったとしても、きちんとゼロゼロナンバーサイボーグの各能力を使った見せ場は存在し(1名除く)、そういった部分は楽しい。
    島村ジョー(009)の加速装置は主観・客観両方から描かれていて格好いいし、ジェット(002)が空を飛ぶ仕掛けもリアリティを考えてありニヤリとさせられる。

    それなのにカタルシス不足が感じられるのは、「009 RE:CYBORG」の敵が分かりにくいのが原因だ。
    確かに2013年の設定で、ブラックゴースト団でもないだろうが、同時多発爆破テロ事件の背後にある「彼の声」が何なのかが分かりにくい。

    まず、「彼の声」が発現するトリガーは「例のオブジェクト」を見ることである。
    これは分かりやすく、疑問の余地がない。

    しかし、問題は、冒頭の島村ジョー(009)を始めとした「例のオブジェクト」を見ていないのに「彼の声」を発現している人間が存在することだ。

    「例のオブジェクト」を見ていないのに「彼の声」を発現するトリガーは何なのか?

    これがおそらく「009 RE:CYBORG」の最大の謎で、発現条件が複数あるのが話をややこしくしている。

    かといって、これも劇中にヒントがあり、アルベルト・ハインリヒ(004)がみんなに説明する台詞に、ゾーン(※)や島村ジョー(009)の脳に対する言及がある。

    また同様に人間の脳と神に対して言及する台詞もある。

    それらから判断すると、「009 RE:CYBORG」では、人間の脳そのものを神とみなし、その脳の中に「彼の声(自爆)」に至るトリガーが最初から内包されているということだろう。

    また劇中には「神は乗り越えられる試練しか与えない」という台詞が登場するが、「009 RE:CYBORG」では神は各個人の脳そのものであるとされているのだから、意味するところは、いわゆる人間原理「宇宙がこのように存在するのは、それを観察しうる人間が存在しているから」ということなのだと思う。

    そう考えると、ラストシーンも、そういう世界が存在するのだから、それを観察しうる人間が(その瞬間どういう状態なのかは分からないが)存在しているという解釈になりうる。

    ラストシーンについては、ちょっと解釈が個人的すぎる、かな?

    わりと難解な「009 RE:CYBORG」であるが、帰宅してから検索すると、もともと原作にも難解な話があったようだし、むしろコアな「サイボーグ009」のファンにはこれくらいで良かったのかとも思える。(ちなみに僕は原作未読)

    しかし、ライトなファン向けには、やはり最後に全員がユニフォームを着て勢ぞろいの予告編のシーンがあった方が良かったのではないだろうか(笑)
    そこで往年のテーマソング(誰がために)を流せば、ライトファンも大満足だったのではないだろうかと思う(笑)

    個人的には、上映時間や場所が限られすぎていて、3Dで観れなかったのが残念。

    (※)ゾーン:フローとも呼ばれる。人間が完全に集中・没頭している時に特殊な体験を得る状態を指す。アスリートにゾーン経験者が多いらしい。

    加速装置の台詞はない
    ※そんな楽しみ方もできますよ(?)



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    「プロメテウス」感想

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    ●この映画の謎とはいったい何なのか?

    「エイリアン(1)」「ブレードランナー」「グラディエーター」のリドリー・スコット監督の最新作「プロメテウス」観てきました。

    早速のレビューです。

    注:基本的に以下の感想はネタバレなしの方向で書いています。ただ物語は何でもそうですが、一切予備知識を入れない方が当然楽しいので、その点はご了承ください。

    今回のみさらに注意:副題にも示していますが、プロメテウスはそもそも何を謎にして観客を引っ張っているのかが良く分かりません。
    そのため、今回に限っては以下の内容が重大なネタバレにつながってしまうかも知れません。
    いつも通り、ストーリーや結末に関するネタバレはありませんが、その点のみご注意ください。

    あらすじ:西暦2089年、考古学者エリザベス・ショウは、地球の様々な遺跡の中に天を指す巨人の姿と太陽系の座標を発見。西暦2093年にその発見をもとにウェイランド・コーポレーションの宇宙船プロメテウスに調査チームとともに乗り込み、発見した座標の太陽系に向かう。そこにはエリザベスがエンジニアと呼ぶ高次生命体がいるかも知れない…。

    この深宇宙探査を、地球や国家などの公共団体ではなく企業が行なっている点、乗組員の中にアンドロイドがいる点など、早くもエイリアンとの共通要素が見受けられる。

    ちなみにウェイランド・コーポレーションのWEBサイトも作られている。プロメテウス本編のWEBサイトよりも凝ったつくりで一見の価値あり。

    そもそも映画「プロメテウス」の出発点は「エイリアン5」の企画であった。

    数年前、エイリアン5の企画の噂が流れた。どうやらエイリアン(1)のリドリー・スコットが再び監督するようになるようだ、と。

    エイリアンは現在4まで作られていて、話はまだ続いている。
    そうは言っても、エイリアン(1)の公開は1979年。最新作のエイリアン4の公開ですら1998年であり、昔の映画であるという印象は拭えない。
    エイリアン・シリーズは毎回監督が代わっており、有名監督の登竜門的な役割を果たしてきた。
    しかし、さすがにここまで時間が経過すると、5と言われても今更感が強く、オリジナルのリドリー・スコットが監督するならば観たいかなというくらいの期待度であった。

    ところが、その後、エイリアン5の噂はぷっつりと途絶えることになった。

    そして、発表されたのが、この「プロメテウス」だったわけである。

    発表された予告編やあらすじは、人類起源の謎を解く、とか、我々の終末を発見する、とかいった内容で、エイリアンとの関係は言及されておらず、エイリアン5の企画中に、いろいろ検討してたらエイリアンから離れたのかなと思っていた。
    それでもエイリアンの前日譚であるという噂は聞こえてきていたが、まぁエイリアンの前日譚なら、まだ人類はエイリアンと遭遇していないのだから、同じ世界観の外伝なのだろうなくらいに思っていた。

    僕は3Dの吹替版で観たのだが、序盤のエリザベスの夢のノイズの処理、探査プローブのレーザー、ホログラムやスターマップのパーティクルの拡がりなど、とても効果的に機能していて美しくて良かった。

    ストーリーは無駄がなく、非常に洗練された印象。悪く言えば意外にこじんまりしているとも言えるが、これは巨匠が映画を作ると長尺になりがちという先入観からもたらされるもので、冗長になるよりはむしろ良いと思う。

    個人的には、ストーリーの構成上仕方ないと思うのだが、目的地の衛星付近に到着したあたりで、乗組員が調査の目的を聞かされるってのがものすごく怖い(笑)
    地球を出る前に聞いとけと。衛星付近で聞いて、とんでもない内容だった場合、もはや断れないだろうと。しかも、どうやら顔合わせすらされてないからね。

    映画プロメテウスの4コマ漫画

    ※プロメテウスの乗組員たちが怪しすぎる…

    そして、予告されていた人類起源の謎というのは、この調査の目的、つまり映画の序盤で明かされる。
    そもそも、その答えがこの調査の出発点だからだ。

    そこで、進化論の否定という台詞がちょこっと出てくるので、話が脱線してしまうけれど、進化論の謎というのは、どうやって無生物質から生命が発生したのか、というのがその本質でしょう?
    それが、地球外の高次生命体によってもたらされたとなっても、じゃあその高次生命体はどうやって発生・進化したの?と問題がネスト(入れ子構造)化するだけで本質的な解決には至らないと思うわけ。
    それが進化論の否定に繋がるとも思えないし、そもそもこの映画の中で人類起源の謎というのは、実は大した意味がない。

    すると、そこに大きな謎が出現する。

    映画「プロメテウス」の謎とはいったい何なのか?

    そう、つまり映画「プロメテウス」の謎とは、

    「リドリー・スコットが制作した新作SF映画を観に行ったら、それが「エイリアンの前日譚」だった」

    ということではないのか?

    そう考えると非常に納得がいくというか、そうでなければこのプロモーションはおかしい。
    途中で出てくるアイツはわざわざフェイス・ハガーじゃないという徹底ぶりだし。

    実際に、プロモーションにおいて、とにかくエイリアンの前日譚であることが徹底的に秘密にされている。
    しかし、実際にはタイトルに「エイリアン・エピソードゼロ」とか「エイリアン・ビギンズ」とか入れておけと言いたいくらい、がっつりエイリアンの話なのだ。

    この映画の本質は「エイリアン(1)で残されたままになっていた、スペース・ジョッキーの謎を、リドリー・スコット監督自らが解き明かした」ということである。

    ふつう映画において続編や外伝であるということは、宣伝すべきアドバンテージであれ、秘密にすべきことではない。(ビジネス的に秘密にする意味がない)
    そこを逆転の発想で秘密にしたのが、この「プロメテウス」だと思う。

    正直、それはアメリカの映画における懐の深さが為せるわざだと思うし、ネットが発達した現代においてはそれはディスアドバンテージにならないという判断だったのかも知れない。
    ただ、こと日本に関してはもっとエイリアンを前面に押し出したプロモーションの方が良かったのではないだろうか。

    「エイリアン」で残されていた、スペース・ジョッキーの謎。リドリー・スコット監督自らの手によって遂に明かされる。

    このキャッチコピーの方がお客さん入るでしょ。普通に考えて。
    と、映画本編に関係ない部分で心配してしまう僕であった(笑)

    さて、本編のエイリアン4は、ついにエイリアンとリプリーが地球圏まで来たところで終わっているので、こちらの続編もついでにリドリー・スコット監督にお願いしたいところなんですが…。



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    「トータル・リコール(2012)」感想

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    ●我々観客にも「リコール」体験がもたらされる。

    「アンダーワールド」「ダイ・ハード4.0 」のレン・ワイズマン監督の最新作「トータル・リコール」観てきました。

    早速のレビューです。

    注:基本的に以下の感想はネタバレなしの方向で書いています。ただ物語は何でもそうですが、一切予備知識を入れない方が当然楽しいので、その点はご了承ください。

    まず、「トータル・リコール(1990)」はフィリップ・K・ディックの短編小説「追憶売ります」を下敷きに、1990年にアーノルド・シュワルツェネッガー主演で映画化された作品。
    今回の「トータル・リコール(2012)」はその、旧「トータル・リコール(1990)」を22年振りにリメイクした作品である。

    21世紀末、大量の化学兵器を使用した世界大戦が勃発。
    その結果、地球上の大半が汚染されたために、人間の居住可能区域は、富裕層が暮らすイギリスを中心としたブリテン連邦(UFB)と、貧困層が暮らすオーストラリアを中心としたコロニーに限定されていた。
    UFBとコロニーの間には「フォール」と呼ばれる超巨大エレベーターが地球の内部を貫通して通じており、貧困層はその「フォール」に乗ってUFBに通勤して働いていた…。

    「トータル・リコール(1990)」の火星設定は一切なくなっており、前述の新たな世界観での物語となっているのだが、とにかくこの「フォール」がトンデモ設定。
    しかもプロットから逆算したと思われる設定・世界観のため、この時点で勘の良い人なら途中の展開はかなり読めてしまうのが悲しいところ。

    しかもリメイクだから基本的なプロットはバレてるしな…。

    しかし、「フォール」を否定しても始まらない。「フォール」を否定するのは、「デスノート」に対して「ノートに名前書いたら死ぬってあり得ない」と言っているのと同じこと。それは批評として完全に的外れだ。
    今回の「トータル・リコール(2012)」は、そういう設定・世界観での物語。ツッコミたいのは山々だが、そこはグッとこらえて先に進む。

    基本的には、主人公ダグラス・クエイド(コリン・ファレル)が体験していることが現実なのか、それともリコール社が提供している仮想記憶なのかという謎を軸にストーリーは展開していく。

    主人公ダグラスは、物語の途中で、何度も現実か仮想記憶なのかという判断も含めたさまざまな決断を迫られることになる。

    その迷いを体現するという意味では、今回のコリン・ファレルはいいキャスティングだと思う。
    「トータル・リコール(1990)」はシュワちゃんありきのキャスティングだったのだろうけど、やはり彼は迷う主人公にはふさわしくない気がする。

    主人公ダグラスには、「あれ、何か知らないけど、身体が勝手に動いて敵を倒しちゃったよ」という意外性が求められるからだ。

    面白いと思ったのは、我々観客も主人公ダグラスとは別の意味で「リコール(思い出す)」体験を味わうことだ。
    随所に「トータル・リコール(1990)」と意図的に似せたシーンが散りばめられており、途中で「あ、こんなシーン前にもあった」と記憶がよみがえる仕掛けになっている。
    結果、劇場に入る前には殆ど忘れていた「トータル・リコール(1990)」の記憶がかなり戻ってきたのだ。

    それだけではない。「ブレードランナー」「JM」「フィフス・エレメント」「12モンキーズ」「アイ,ロボット」「マイノリティ・リポート」…今まで観た数々のSF映画の記憶も同時によみがえってくるのである。
    最初は「ブレードランナー」の焼き直しだなと思った美術も、もしかしたらそういった意図のもとにわざとデザインされていたのかと思いたくなるくらいだ。

    特筆すべきは、やはりローリーを演じるケイト・ベッキンセイルだろうか。「トータル・リコール(1990)」ではシャロン・ストーンが演じた悪役を魅力的に演じている。
    いいぞ!やれ!ってオマエはどっちの味方なんだという(笑)

    しかし、1点苦言を呈したいのは、この「トータル・リコール(2012)」の予告編だ。
    途中、「トータル・リコール(1990)」を観ていた人に対してのちょっとした引っ掛けがあるのだが(その前に伏線があるので、分かる人はさらにその引っ掛けを回避できる)、その答えのシーンが予告編に入っているのだ。

    これはもしかして、日本における予告編のローカライズに問題があるのかと、本国アメリカのオフィシャルサイトで、オリジナルの予告編も確認したが、やはりネタバレしていた。
    映画自体に良いシーンがなくて、予告編自体も本編同様にヒドい出来なものがごくまれにあるが(作品名は内緒)、「トータル・リコール(2012)」はそういうわけではない。
    むしろ予告編に入れられる優れたシーンがいくらでも他にあった作品なのだから、ネタバレシーンはあえて入れないで欲しかった。

    映画好きな人間にとって、本編上映前に流れる予告編は楽しみの一つであるが、それは同時に回避できないものであり、そこでネタバレされてしまうのは残念でならない。

    今回の「トータル・リコール(2012)」は、とにかく映画を観終わったあとに、あれはこうだった、いやこうじゃないの、と恋人や友人、あるいは家族など、この映画を観た人の間で会話が弾むような作品だと思う。
    恋人や友人間であれば、いくら「フォール」にツッコミを入れようが構わないし、他にもツッコミどころがかなりある(笑)
    それに、例えばネイルに対するタトゥーなど、小ネタを含めて、旧「トータル・リコール(1990)」と比べられる面白さもある。

    また、プロアマ問わず、自分で物語を作る人にとっては、ああでもない、こうでもない、自分ならこうする、オチはこっちに持ってく、など、非常にイマジネーションが拡がる作品だと思う(笑)

    そういった楽しみ方こそ、この映画の醍醐味ではないだろうか。

    そしてまたすっかり忘れて、来るべき次の「リコール」体験を待つのだ(笑)

    「トータル・リコール(1990)」うろ覚え
    ※それでも「トータル・リコール(2012)」観たあとにかなり思い出したけどね



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